こんにちは。しとしとです。

久しぶりの更新ではあるのですが、この度しとしとではポッドキャストをはじめました。

聴いていただけると嬉しいのですが、ここでは始めるにあたって考えていることを、書き残しておこうと思います。



そもそも、音声メディアを始めた背景を、文章で書くというのはなんだかおかしな状況なのかもしれません。

 

現に、僕がポッドキャストを始めようと相棒のしゅうに投げかけるきっかけになったのは、「書かれる言葉は話される言葉の陰である」という誰かの言葉に触れたことです。

事実、話す言葉は本当に儚くて、溢れて二度と戻ってこない言葉が無数にあります。
そうした言葉をとどめておきたいという気持ちがあり、声を届けるという形にトライしてみました。

 

ただ一方で、慎重に選ばれた、書かれる言葉でこそ届く場所を信じているのも事実です。

書かれた言葉はひとつひとつに、時間を携えています。
それはおそらく、話す言葉が背負うことができないものです。

また、書かれた言葉は、話される言葉よりも中性的であると言えるかもしれません。
というのも、話し言葉は、話し手の声や表情によって、意味が強く引きつけられるぶん、解釈の幅が必然的に狭くなります。

一方の書かれる言葉も、その人ならではの筆致は確かに存在していて、それが意味と言葉を結びつける引力として働いています。
ただその引力は、話し言葉が受けているものよりはずっと弱い。
その弱さが、受け取る人の入り込む余地を、少しだけ広げているような印象があります。

 

ここで触れたこと以外にも、きっとそれぞれの伝え方に届けられるものと、零れ落ちるものがある。
だからこそ、こうしてふたつの媒体を行ったり来たりしながら発信することを続けていこう、と思います。



少し話は変わるのですが、発信という言葉を使ってみて、今、思ったことがあります。

この言葉、近年すごく軽く使われている感じがします。
発信という行為が様々なツールで身近になったことが大きな要因でしょう。

ただ、僕はこの言葉と、この言葉で定義される行為に、祈りみたいなものを感じます。
僕がイメージするそれは、ある種の軽さとは真逆の印象です。

 

発信という言葉が使われるとき、それはとても孤独な作業です。
交信という言葉には他者が居るけれど、発信は届くか届かないかはわからないまま、ただ投げかけ続ける行為だから。

そのわからなさを携えて、それでも届いてほしいと投げ続けること。
その姿勢が、祈りに似たものを感じさせるのかもしれません。

その孤独な行為が、深い場所での受信を生み、だれかの発信に響きあうことが起きるのは素敵なことだなと思うし、そういう風景を想像しながら発信をしていきたいと思います。

 

少し脱線してしまいました。

なにが言いたいかというと、音声という媒体が増えたからこそ、それぞれの伝え方ができることを真摯に考えていきたいと思ってるということ。
そして、発信者であるからこそ、受信の意識も絶えず持って生きていきたいということです。

 

これからもしとしとをどうぞよろしくお願いします。

 

追伸
よかったらPodcastも覗いてみてね。

 

(文責:芝田 昂太郎)

 

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