前回の未来子さんのお話…「コトブキ荘、豊岡のこと」

キウイの話めっちゃ好きやわー。
そもそもなんでキウイやろうと思ったんだろうね。

—わかんないです。梨以外にもなにか残したいと思ったおじいちゃんが、苗木を持ってきて梨農園の余白に植えたみたいで。

余白っていい言葉だよね。本当に。
そういうとこにおもしろいものがあるんやんな。
余白って(しとしとの)テーマなの?

—言葉としてしっくりきたので使っています。テーマかどうかはわからないですけれど、都会では余白というか自由に遊べる少なさを感じて。自由に遊ばせてくれる場所みたいなイメージ。二人にしっくり落ちてくるイメージがあったので。

余白は大事だ。
デザインでも言うもんな、余白が大事だって。
私、大学の時の研究テーマを中間領域っていうのでやっていて。

—中間領域…?

なんにでも「間」ってあるやん。
例えば、外と中の間の空間、縁側とかテラスとか。
例えば、パブリックとプライベートの間。
そういう「間」の部分で一番アクティビティが活性化しやすいんじゃないかって仮説があって。
今もそれをきっと身をもって実験、検証中やねん。

だからいろんなものの間がめっちゃ気になる。
どっちも兼ね備えてるし、どっち足らずやし。
不思議な感覚やん、間にあるって。
余白とかもそれに近いものがあると思う。
余白もそうやん。何もないだだっ広い場所、「無」じゃないから。
「なにか」があって、それがあるからこそ、そうじゃない場所として定義される場所。

そう考えたら、余白もなにかの間なんじゃないかなって。
そこって一番の醍醐味じゃない。
どっちかに偏っちゃったら、おもしろくない感覚はあると思う、みんな。
それがなんで面白いんかはずっとわからへんねんけど、それを見つけたいなと思う。
二人も神戸にいるし田舎にも来ていて、「都会と田舎の間」にいるから、どっちの視点もあって楽しいよね。
そういう人が増えたらいいなと思う。



居合わせた会員の方と。

あとがき

はじめにも書いた通り、場所のことも未来子さんのこともよくわからない状態で臨んだ今回の取材。

前回学さんにお話を伺ったあと、「どなたか面白い方、ご存知ないですかね?」とそこはかとなく聞いてみたところ、お名前が挙がったのが未来子さんでした。


記事を書きながら振り返っていると、ふわふわとつかみどころがないけれど、そのふわふわの中にある揺るぎないもの(学校選びのセンス、都市圏で働いていた時に感じた違和感、テーマとして携え続けている「間」という概念など)を感じる時間だったように思います。
特に印象に残っているフレーズがあります。


お互いがここの場所を介して魅力に気付き始めて、楽しんでくれてるのかなと思う、今は。
(中略)
でも、「そんな風になってください」って言ってもできないので。とにかく、開けてます。ずっと。


目指すところへのルートは手探りの状態であっても、開け続けることが裏付ける説得力と力強さ。「そこに在り続けること」が、意味とか意義を連れてくるのかもしれません。


いま僕たちが1920年代の豊岡の人々の気概に心震わされるように、ずっと未来に今の豊岡の動きに心動かされる人がいて、そこに通底する価値観の源泉(発信地、起点)としてコトブキ荘、未来子さんが発見される時がくるのかもしれない。そんな想像で胸が膨らむ時間でした。

(文:芝田 昂太郎)