群馬県館林市。このまちで始まろうとしている「フトマニ草園」という取り組みがあります。

フトマニ草園は、7人の持ち主からなる空き地を利用して、人だけではなく動物・昆虫・植物も共存しながら、それぞれにとって居心地のいい、公共の場所を作ろうとする試みです。

発起人は井野口智子さん。家族と一緒に自動車整備工場でお仕事をしながら、南天の家という古民家を活用したヨリソイの場の主宰でもあります。


しとしとと智子さんの出会いは2021年の4月。とあるトークイベントに参加したことがきっかけでした。

そのときは軽くお話をしただけでしたが、イベント後、智子さんはメッセージとともにフトマニ草園のラフスケッチを送ってくださいました。


「こんな構想をしているので、よかったらまた遊びに来てください」


そのメッセージやトーン、言葉の選び方、スケッチの優しい色使い、そして智子さんの温度から、「この取り組みの共犯者になれるかもしれない」と感じた僕たちは、実際に智子さんに会いに行ってみることにしました。

智子さんが送ってくれたスケッチ。優しい色に引き込まれる。



ちゃぶ台を囲みながら、実際の予定地に足を運んで。
二日間に渡って智子さんからフトマニ草園をはじめるきっかけや構想など様々なお話を伺いました。

そうした深い話題に踏み入っていく前に、今回は「フトマニ草園」という取り組みについて、しとしとの視点から、面白いと感じているポイントを紹介します。



ひとつめ。
まちを形作る取り組みがそこに住むひとりの声から始まっているということ。

しとしとは「まちは、そこに住む人の総体として成り立っているのでは?」と考えています。
その視点からみたときに、「フトマニ草園」のような、そこに住む人の声からはじまる取り組みに心惹かれてしまいます。

その理由は「これ」というひとつがあるわけではないのですが、草の根的にまちに関わる取り組みが生まれるのは、住む人にとってまちのことが自分ごとになっていることの表れと捉えられるから、という部分がありそう。
また、企業や行政が進めるような大きなまちづくりにはない心地よさを感じるからかもしれません。


ではそうした「ひとりの声から始まった取り組み」にはどんな特徴があるでしょうか。

まず、小さな違和感を大切に進めていくことができる、というしなやかさがあります。「目指したい場所はこっちであっていただろうか」とか「この進め方でいいだろうか」と立ち止まって確認しながら進めていける可能性が高い。

実現まで時間はかかるかもしれません。でもその分、嘘のない場所やモノが出来上がっていくのではないだろうかと感じます。

また、ひとりから生まれた取り組みは、「明確な意志を宿す言葉で話される」という強さを持ちます。
そうして生まれる言葉は、きっと企業や行政が進めるような大きな取り組みが持つ言葉よりも、確かな重さを持って聞き手に届くはず。

その重さは、聞き手が次の語り手になって言葉を生む、その足掛かりになり、小さくても確かな共感の和を広げていきます(現に僕たちは、智子さんの語りを起点にこうして文章を書いています)。


思えばしとしとが今までお話を聴いてきたのも、「自身の意思や思いを自分なりに形にしている/しようとしている人」という共通点があるのかもしれません。

智子さんとお話していて、改めて「ひとりの声から始まること」が持つしなやかさと強さを感じました。


智子さんのスケッチは、いまこんな絵に育っています。まちの中の空き地に自由な発想で絵を与え、それをカタチにする。わくわくする挑戦です。




ふたつめ。
この取り組みに多様な解釈を受け入れる可能性を感じたことです。

誤解を恐れず、かつ平易な言葉でフトマニ草園を一文で表現してみます。


「まちに住む人が、使われていない土地を借り受けて、自然をたたえた公共の場所をつくる」


こんな一文が当てはまるかもしれません。
この一文眺めていると、この取り組みが多様な解釈を受け入れる可能性を秘めているいることが見えてきます。どういうことか。


例えば、まちづくりという視点から。
「公共ってなんだろう」という問いを改めて考えながら、新しい公共をまちに実装していく取り組みという解釈。

例えば、生物学的な視点から。「ヒトとそのほかの生き物や植物ってどう共存していけるだろうか」という問いとともに、環境のありかたを考え直していく取り組みという解釈。

例えば、館林に住む人の視点から。
「自分たちにとって気持ちの良い空間ってどんな場所だろうか」という問いとともに、生活のあり方を編み直していくきっかけとなる取り組みという解釈。

また、完成したこの場所でどんなことができるだろうか、という場所自体の楽しみ方も無数にあり、そのそれぞれも解釈のひとつと言えるでしょう。

実際に、発起人の智子さんも、このプロジェクトがつくる公共を人や植物だけではなく、まちや地球、さらには宇宙まで広い視野で捉えています。

フトマニ草園の予定地に立つ智子さん。智子さんの目線の先にはどんな未来が見えているんだろう?智子さんというまちの一人が蒔いた種、その種に水をやって自由に育てる、そんな共犯者をこれから増やしたい。




こんな風に、この取り組みには誰しもが思い思いの解釈で関わっていく余白があります。

その余白を目一杯使うことができれば、この場所で起きるコミュニケーションや出来事、つくられていく景色は今までにないものになるのではないだろうか。

これは「ここはこういう場所です」と受け取り方を限定する場ではなく、解釈を呼び起こし、受け入れる奥行きの深さがある場所である、とも表現できるかもしれません。

しとしとは、ここにある余白にどんな視点から入り込んでいけるだろうか。


「まちに住む人が、使われていない土地を借り受けて、自然をたたえた公共の場所をつくる」

この一文を、あなたはどんな視点から受け止めたでしょうか。


次回から、実際にフトマニ草園に関わる方々の解釈を聴いていきながら、この取り組みの具体的な可能性を探っていきます。