こちらは、後編です。
前編はこちらから。
宮代町を離れ、次なる目的地の群馬県は館林市。
ここで待っていて下さった、井野口智子さんと合流。
智子さんとの出会いは、修太郎が参加したイベントで。
今回合宿をするにあたって、東京と仙台のまんなかの場所を探していたときに、イベント後メッセージをいただいたことを思い出し、おじゃまさせていただくことに。
僕は初めてお会いしたのですが、物腰が柔らかで、丁寧に言葉を選ぶ姿勢が印象的な方。
智子さんはご家族で経営されている自動車修理工場でお仕事をする傍ら「フトマニ草園」という取り組みを進めています。
このプロジェクトに興味を持った僕たちがお話を聞かせていただきたいなぁと思い館林までやってきました。
プロジェクトについては本当にたくさんのお話をいただき、僕らとしても気づくポイントがたくさんあったので、詳しくは別の記事で紹介することにします。
そんな智子さんと話していて僕が感じたのは、『この方は今まで受信したものを携えて続けて生きてきたのだな』ということでした。
智子さんにフトマニ草園をはじめるきっかけを聞いてみると。幼い頃お父さんの狩猟について行ったたときに身を潜めていた草むらの景色や香りなどの記憶、子育ての最中に感じた違和感など、軽やかに鮮明に自分の中に抱き続けてきたことを教えてくれました。
そんな裏付けがあるからこそ、それは一般的に求められるような流暢なプレゼンテーションではないかもしれないけれど、僕らは、智子さんが時間をかけて言葉を選びながら話してくれたこのプロジェクトが描こうとしている景色にわくわくしました。
智子さんからの発信を受け止めて、僕らはどんな言葉を、行動を選んでいこうか、そんなことに思いをはせる時間でした。
お話がひと段落したところで、3人で飲みにいくことに。智子さんいきつけの台湾料理のお店へ。
ここでも色んな話を聞きながら、途中、智子さんに自分の誕生日、生まれた時間・場所を元に占星術のような形で占ってもらいました。
「占いなどで自分を誰かに表現してもらうと、少し抽象的でも当てはまっているような気がしてしまう」
そんなことを聞いたことがあったので若干身構えていたのだけれど、それでも信じてしまいそうになるくらいには的確に自分を表現されていたので驚きました。
そして驚くと同時に、『世界の分り方は無数にあるんだな』と考えていました。
きっと人は物語のなかで生きている。
ある人は宗教を通じた物語で世界を分かるかもしれないし、ある人は科学的に世界を分かるかもしれない。どこで育ったかによっても、そのわかり方は変わってくるだろう。
それぞれが自分が生きていきやすい物語のなかで世界を理解しながら無関心ではない、そんな状態が作れたらいいよな。
占星術を通した物語、という新しい世界のわかり方に触れることで、自分以外の他者を受け入れる余白が自分のなかで広がったような感覚がありました。
その後、居酒屋から帰り、智子さんが運営されている「南天の家」に宿泊。(南天の家は古民家を使って智子さんが作っている地域のヨリソイの場)
おやすみなさい。
明くる日、日本遺産に指定されている里沼であることを教えてもらったので、そのうちのひとつ城沼へ。沼の周りが遊歩道として整備されており、たくさんの人がそぞろ歩いていました。
自転車とすれ違いながら小学生くらいの子が、見ず知らずの僕らに挨拶をしてくれる。
いいな、と思う。
きっと館林での記憶には「挨拶をしてくれた子がいたな」と書き込まれる。まちはそこに住む人の総体である。とするならば、その端っこを垣間見たような。
住む人にとって、訪れた人にとって、振り返ったときにいいまちだったなと思えるまちは、そのまちがどんな取り組みをしていたか、ではなくて、どれくらい挨拶ができる人がいたのか、とか、どれくらい自分にとって気持ちの良い場所があったのか、とか、そのくらいなのかもしれない。
こういうことって日々の営みの中では、ささやかすぎて見落としがちなことだったりする。
僕が高校生のころ住んでいたまちには毎朝、通学時間に交通整理をしているおじさんがいた。その人は、まちやそこでの生活を思い出すたびに、一緒に記憶の端に上ってくる。
あの当時住んでいたまちがどんな取り組みをしていたのか全然知らないし、知ろうとしたこともなかったけれど、そのおじさんの声と雨の日も雪の日もそこにいてくれたことはすぐに思い出せる。
その時の感情は幸せとか憤りのように明確な言葉を与えられるものではないけれど、確実に後ろ向きな感情ではない。
どんな人が、どんな印象で記憶にあるのか、その数と質がまちの印象を形作っているとすれば、自分も誰かにとってまちの印象の担い手だ。
そして自分の体を公共に晒す「歩く」という行為は、まちの印象をつくることにささやかながら参加していると言えるのかもしれない。
あえて大袈裟な表現をすれば、歩くことでまちは変わらないけれど、だれかの記憶の中のまちを作っていくことができる。
このまちに住む人に、一瞬すれ違う人にどんな町≒自分を思い出してもらおうか。
沼の周りを2時間食いかけて歩き、お腹が空いたので地元のラーメン屋さんで腹ごしらえ。テレビと座敷があるタイプのラーメン屋さん。駅伝を放送していました。
その後智子さんと合流し、フトマニ草園の予定地へ。
計画のイメージを共有してもらいながら設置する予定のトレーラーハウスを見せてもらいました。
今はまだ荒れた更地ですが、ここからどんな景色を経て、どんな景色が生まれるのか。
フトマニ草園のとなりにはお寺がある。大法院。
この取り組みを応援してくれている住職の妙敬さんがお声がけくださり、お茶させていただくことに。
自己紹介をかねて、今までの取り組みなどを説明させいてだくと、妙敬さんがひとこと。
「すばらしいですね!これはもう菩薩ですよ!」
「…?」
菩薩ってそんなカジュアルに使って良い表現なのだろうか?
「菩薩ですか!そうですか!」
とテンションがあがる修太郎。謙遜してほしい。
その後も終始、いままでのお寺とか、住職さんのイメージを覆すフランクさでお話ししてくださる妙敬さん。僕らが思っているより仏教って身近なものなのかも。もっとお話を聞いてみたい。興味の入口になる時間でした。
時間が時間だったので菩薩飲み会の約束をとりつけ、お暇させていただきます。
新宿へ。
実は少し前までしとしとのHPが原因不明の不調で表示できなくなっていたのは、電車のなかと鳥貴族で復活させました。
あとがき
しとしとにとっても久しぶりの遠征。
人と出会うこと、まちを歩くことの感覚を思い出しながら、しとしと にとっても僕個人としても学びの多い時間でした。
また、しとしとのこれからを考える上でも大切な時間になりました。
しとしとは、これまでどちらかというとプレイヤーというよりも、まちに第三者として足を運び、それを言葉にしていくという役割でした。でも、これからはしとしと自体を拡張していきながら、まちの景色を作る側に回っていきたいと強く思う時間でもありました。
僕自身は仙台に住んでいるため、なかなか気軽に!とはいかないのですが、これからも継続的に関わり続けていきたいと思っています。
そして記事を書きながら、こうして思い出す場所や人が増えるのは幸せなことだなと、考えていました。
宮代町、館林市で出会った方々、本当にありがとうございました。
文責:芝田昂太郎