こんにちは。お久しぶりです。しとしとの芝田昂太郎です。


 今回は、しとしとの合宿を兼ねて2つのまちを訪れたので、遠征記として残しておこうと思います。前編は「埼玉県宮代町編」、後編は「群馬県館林市編」として2編構成でお送りします。


 さて、僕は仙台に住んでいるのでいったん夜行バスで新宿へ。修太郎と合流します。ウォーミングアップとして、喫茶店での朝食の後しばし新宿を散歩。お洒落なカメラのキタムラでフィルムを調達していざ出発。電車に乗ります。

 目的地に着く前ですが、ここで少し。しとしとにとって電車に乗ってる時間、移動時間がけっこう大切。
神戸に住んでいたときから、僕らのホームタウン香美町まで電車で5時間くらいかけて通っていました。振り返るとその車内で話しながら深まってきたものが結構あるなぁ。

こうして電車の車内や駅、空港といった「中性的な場所」は「非場所=non-palce」と呼ばれるそう。

「non-palce」という言葉を提唱したフランスの人類学者、マーク・オジェはそれを「人類学的な定義としての『場所』とみなされるほどの重要性をもたない、人間が匿名のままにいる過渡的な空間」と説明する(wikipediaより)

 若干ネガティブなニュアンスを含む「匿名のままにいる過渡的な空間」という表現が興味深い。非場所に身をおくこと、いろいろな属性の人がその属性を離れて一緒にいるということは、ラベリングが溢れている日常ではできない経験だ。
 こうした状況を自覚的に経験することは難しい(ある意味では無意識であるからこそ非場所であると言える)けれど、「なにものでもない自分」になれる瞬間で、僕は結構好きだ。気づかずにまとっているものをするりと脱いで、自分として考えられるような気がするから。

今回この非場所=電車内で話したことはポッドキャストでお話する予定です。

さて、新宿から一時間と少し。
降り立ったのは姫宮駅。埼玉県宮代町にある駅です。

 ここで待ってくれていたのは辻純子さん。辻さんとは、修太郎が東京香住会(東京在住の地元出身者が集まる会)に参加したときに知り合いました。

 辻さんは修太郎と同じ香住のご出身でご結婚を期に宮代町へ。
 僕たちがこっそり香住で進めようとしていたプロジェクト(これもまたどこかで話したい)を考えるきっかけとなった方でもあります。
 今回は辻さんのご自宅にお邪魔します。

まちを歩いているとお肉屋さんに出会う。昔ながらの店構えと店前で繰り広げられる集い、その景色に引き込まれた。


 ご自宅の敷地には、小屋と呼ぶには立派な離れのような建物が。
 聞くと息子さんが新規就農されており、この場所で出荷にむけた作業を行っておられました。大量に生産するというよりも、少量でも市場に出回っていない品種を生産し、それをブランディングして販売しているそう。農業にも目利きとポジショニングがあるんだな、という当たり前のことに気づかされます。

 出荷前のカブを手に「そのままかじってみて」と言われ、いただいたのですが、びっくりするくらい美味しい。テレビなどでリポーターが、野菜のことをフルーツみたいって表現するのを信じていなかったのですが、フルーツのようなジューシーさを感じるお味。

かぶの名前は「梨のすけ」本当に梨みたいなかぶ。赤い色をした「桃のすけ」もいただいたのですが、これは本当に桃みたいなかぶ。



 辻さんが収穫されたお野菜を使ったランチを作ってくださったので息子さん、旦那さんと一緒にいただきます。

 改めて自己紹介をしながら、しとしとの今までの活動や香住への思いをお話していると「あのまちでこれから産業は作っていくのは難しいよな」というトーンの返答が。

でも、
「縮小していく社会でも、そこにある生活をより良くししていくという文脈でやれることはあるんじゃないか」
という、しとしとのスタンスをお話をさせていただくと、息子さんが幼い頃香住で釣りをしたときの記憶を思い起こして、「おれも香住が嫌いなわけではないんだよなぁ」と一言。

 そうなんだよな。
 当たり前だけれど「町を離れた=町を捨てた」という等式は成り立たない。心のどこかでその町の存在はあり続けている。これは、辻さんご家族と香住の関係だけではないはずで、例えば各地に県人会があることも同じような気持ちの表れと言えるかもしれない。

でも、離れた町に久しぶりに足を運ぶ機会はあっても、なかなか住んでいる時のように関わることは難しい。
 現に辻さんは今でも香住に空き家をお持ちで、手入れをするために定期的に帰っているそう。でも、そこで生まれるまちとのコミュニケーションはなかなか深いものにはなりづらいそうです。

 町を出た人が離れた場所から思いを馳せる、その思いは今のままだと形になる前に霧散してしまう。それを掬いとって形にすることができれば、いろんな可能性が開けてくれるんじゃないだろうか。そのための受け皿はどんな形がありえるだろうか。
 ここで簡単に結論は出せないけれど、取り組んでみたい僕らの宿題です。


 

 そこからお話は広がって、宮代町の町づくりについて。
 聴いてみると、この宮代町は「農のあるまちづくり」をコンセプトに、住民が参画する形でまちが形作られてきたそうで、しかも辻さんはそのコンセプト策定の際の評議委員を務めていらっしゃったそう。

 そのような文脈で出来てきた場所をいくつか見にいってみました。ひとつひとつの取り組みの詳細はここでは触れませんが、どれも住民参加形でコンセプトを作ること、そして掲げたものに誠実であることを至る所から感じました。

 例えば「新しい村」という施設は、「農のあるまち」が1998年に掲げられているものの、現実的には農家数の減少もあり農業の存続が難しくなっているという問題意識から2003年に議論が立ち上がり、その結果できた施設だそう。
 そのプロセスも気になるけれど、実際にできたその空間は本当に気持ちの良い場所で。どのようなプロセスでまちに公共施設をつくっていくのかということだけではなく、つくった場所がちゃんとまちの人たちにとって気持ちの良い場所であり続けていることの素晴らしさを感じます。そして、シンプルに「気持ちの良い場所がまちにあることの可能性」を感じ、とても興味深い取り組みとなっていました。

地元の農産物などが販売されている「新しい村」。 その機能はもちろんだが、広場がなんとも気持ち良く、いろんな世代が入り混じってモルックをする景色が印象的。ちゃんとまちの人たちが使いこなしながら、気持ちの良い場所が維持されている。



 また、公園にあるお手洗い。老朽化が進んでいたものを建て替えるにあたって、「どういったお手洗いがいいだろうか」を住民を巻き込んで議論しながら足掛け2年(!)かけて建設されたそう。「四季楽」という名前が付けられています。


 この取り組みにあたって当時の町長のコメントを紹介させてください。

 意見を提言してくれたのは町長である私でも役人でもなくて、それは「町民の皆さん」であったのです。「シンポジウム」や意見提言を受けて建設し、事実今回建設したトイレのどこにも「役人の意思」というものは入っていません。サイン表示にまで徹頭徹尾、町民の皆さんに考えていただいたわけです。
 つまりパートナーシップとはこのようなものだと考えてます。「役人が市民の意思とは関係のない論理」で物事を進めていく時、市民には「不信感」しか残りません。「さあ作ってやったぞ」的な発想のどこにまちづくりの「主人公」であるべきはずの「市民」がいるというのでしょうか。

(中略)
 町や他人に何かをしてもらおうということではなく、町のために少しだけ手間暇を出してくれる人が一人でも多くなれば、それだけよい町、よい地域になります。今、宮代町ではこの行政と町民とのパートナーシップが良い形で築かれつつあります。



これ以上なにも付け加える言葉が見当たらないコメント。脱帽です。

 

 宮代町でみられる市民の能動性は、住む人自ら起こるのか行政側の姿勢が反映されるのか、というのは鶏卵論争になってしまいそう。
 ただひとつ確かなのは、しとしとはそこに住む人にフォーカスを当てることも多いけれど、行政のあり方もまちづくりの文脈では外すことのできない要素のひとつであること。きっと、その2つの車輪がバランスよいサイズであることが、まちが柔軟に進み続けるために大切なことなのかもしれません。

 期せず訪れた宮代町で、まちってどうあったらいいのかを考える上で大切な要素とその実践を垣間見たような気がします。

宮代町で印象的だったのは、公園など公共施設を軽やかに使いこなす人たちの姿。公園で将棋を指すおじいちゃん、のびのび遊ぶ親子や中高生。公共施設をつくるプロセスが関係しているのか、みんなが自分の場として公共空間を捉えている感じがした。



 そして、まちを案内してくださり、こうした思考のきっかけをくださった辻さん。僕は初めてお会いしたのですが、柔らかな思想とのびやかな発想をお持ちの素敵な方でした。
 「35歳を超えると新しい音楽を聴かなくなる」と言われるけれど、それと同じように年齢を重ねると、良い意味でも悪い意味でも思考は固まっていきます(すでに僕もそれを感じている)。そうなると、新しいものを受けれ入れることってどんどん難しくなる。でも辻さんは僕らのアイディアを否定から入らずに耳を傾けてくださりました。

 辻さんのような姿勢を保ち続けるのは簡単ではないとわかりながらも、こういうふうに年齢を重ねたいな、と思いました。
 ありがとうございました。



さて、少し長くなりましたが、宮代町編はここまで。
次回は群馬県館林市にお邪魔します。