今回のインタビューの舞台は香美町香住の佐津地区。
兵庫県の中でも日本海に面し、夏は海水浴で賑わう美しいビーチがある場所です。

 

 

今回お話を伺うのは「民宿美味し宿かどや」の代表、今井学さん。通称がくさん。

 

待ち合わせの時間近くまでビーチを眺めていたせいで、汗だくになったまま「美味し宿かどや」へ。

がくさんは汗だくの僕たちを見てか、冷たいお茶とタオルをくださいました。

がくさんとお話するのはこれ2回目ですが、まずは、がくさんの51年間の人生をプレイバックして聞かせていただくことにしました。

 

「生まれは城崎温泉。中学3年生の時に香住に引っ越してきました。1年の浪人を経てその後甲南大学へ。大学卒業後は電機メーカーに就職し、30歳の頃に香住に帰り、家業である民宿を継ぎました。」

「それに加えて、サラリーマン時代の8年間でスキューバダイビングのプロの資格を取得。それを地元で広めたいなという思いがあり、ダイビングショップを2000年にオープンさせました」

「ダイビングショップをしていると海辺の環境教育というのがひっかかってきて。2007年にはNPOたじま海の学校という環境を扱うNPOを設立しました。」

「当時は周囲に環境系のNPOがほとんどなく、山陰海岸ジオパークが世界認定された際に声がかかってジオパークに関わるようになり、関わっていく中で、どうやらこれは地質の話というよりもまちづくりの話みたいだぞと感じ、まちづくりにも関わるようになって今に至ります。」

 

 

簡単にこれまでの人生をプレイバックして聞かせてもらうだけでも、がくさんの人生にはたくさんの出来事や活動があることが分かります。

 

そんな中でも最初に浮かんだ疑問。

そもそもがくさんは将来は地元に帰ってこようと思っていたのでしょうか?

「それは無かったですね。地元に帰ってくるイメージは無かったけど自分はサラリーマンでは終わらないだろうなとは思っていた。就職活動をしながらも、サラリーマンは5年で辞めてその間の経験を活かして自分で業をしたいなと思ってた。」

「そこで実家が宿をやっていたから、じゃあ宿をやろうという感じでした。」

 

バブルの頃ってみんながサラリーマンを目指す時代だったって聞いたことがあります。
サラリーマンになること、いい会社に行って勤め上げることが目標とされる時代だった中、どうしてサラリーマンは5年で辞めようという発想になったんですか?

「自分が好きなようにやりたいと思ったから。」

 

そのようにがくさんが考える背景には、高校までの進路選択と、大学での経験があります。

「子供の頃、母は城崎温泉で仲居、父は板前をしている家系で、あまり裕福ではなかった。だから高校進学も就職が一番良さそうな電気科を選んだ。電気が好きとかそういう理由ではなく、電気科を選んだことをすごく後悔した。」

「当時高校に通学する汽車の中で司馬遼太郎や三国志を全部読んだ。本読んでるだけで勉強してるって言われたらすごい幸せだろうなと思った。電気科なのに大学は文学部に行きたいと思った。」

「当時はバブルの入り口くらいの時で、母親が継いだ実家の宿は右肩上がりで売り上げが伸びていった。そこで母親が大学に行きたかったら行ってもいいよと。でも、電気科から大学には行けないから1年浪人して大学に行こうと決めた。」

 

高校時代に一つのターニングポイントがあったがくさん。

それまでは自分発信で物事を決めるより、自分の外にある要因で物事を決めてきた。そうではなく、自分の好きで選択をするようになったこと、この成功体験がサラリーマンを辞めて自分の好きに生きようという発想に繋がっているようです。

確かに、これをしてるだけで勉強してるって言われたら幸せだなとか、これが仕事なら幸せだろうなと思うことってあるなぁ。

 

 

そんながくさんはバブル絶頂の大学時代にたくさんのバイトを経験したそうです。

「バイトをする中で人に使われることの不条理ってあるなと感じた。そこで自分で決めて何かをやりたいと思ったこともサラリーマンを続けることを選ばなかったことに繋がっているかな。」

 

ここでがくさんは大学時代に経験したバイトについて話してくださいました。そして、その経験が今のがくさんを形作る大事なカギになっていることも。

「当時やったのは新聞の世論調査員の仕事、灘高校の受験番号1番を取るために徹夜で友達と交代しながら並ぶバイト等々。おいしいバイトを見つけてくる嗅覚はあったのかもしれない(笑)」

「その嗅覚は今ビジネスをする上でも活きているかも。一つ確かに言えることは人のやらないことで行動すれば上手くいくんだっていうこと。日本人はあまり新しいことをしたがらないから。当時からこの感覚は経験則としてあった。」

「俺が良かったのは、30歳で香住に帰ってくるまで香住のことを全く知らない状態だったこと。知らないからいろんなことを聞いて回った。するとそれってすごいことじゃないの?って思えることがあってホームページに書いていた。柴山ガニの選別が日本一細かいということも当時言われてなかったけど、すごいことだと思って書いてたら話題になった。」

 

 

人が行動しないところで行動する。
その言葉は確かにそうだなと納得する一方で、「そんなこと出来たらみんなやっているよ」ってがくさんと話すまでは僕は思っていました。

でも、がくさんの解釈は至ってシンプルで、自分の疑問や知らないこと、そんな新鮮な感情に素直に足を動かしたり、調べたりすること、そして発信をすること。

身近な心がけが何かを前進させるきっかけってことか。

がくさんはそんな行動のサイクルで成功体験を重ねていったそう。

 

 

ここまでがくさんとお話していて感じたこと。

質問に対して言葉が迷いなく、滑らかに出てくる。自分のことをよく分かっておられる印象。それはなぜなんだろう。

「自分について深く考えることをしてきているから。」

自身について深く考えるようになったことが何か前向きな変化に繋がっていると感じますか?

「それがビジネスとしても上手くいったすべてなんじゃないかな。自分の得意なことはやるけど、苦手なことはやらなくなったから。苦手なことをやっても無理でしょ今更。でも、得意なことをやればいくらでもその部分には人もついてきてくれるし。自分の得意な部分で、人のやらないことを見つければいい。」

でも、僕が受けてきた教育は、体育が5で算数が2なら、もうちょい算数頑張ろうよってそんな感じだったような。

「そんなの5段階評価で体育10取るくらいの勢いで、その代り算数1でいいと思うけどなあ。だってその人の好きなことをすることが一番世の中のためになるわけだし。」

 

 

こんな素敵な言葉をかけてくれる大人が周囲にいることは本当に心強い。『その人の好きなことをすることが一番世の中のためになる』たしかに言われてみるとそうだな。

なんとなく世の中のためには我慢して生きないといけないとか、好きなことだけで生きていくなんて無理だよってそんな風潮があるけれど、みんなが自分の得意で助け合う、そんなイメージが共有出来たらいいな。

 

 

これまでしとしとで取り上げた方々も同じような発想だったような気がします。

「マツトソ(松岡塗装店代表松岡大悟さん)もガーデン小林(小林景楽園代表小林良斉さん)も自分の好きを仕事の中に見つけてるんだと思う。ガーデン小林なんて草木の話してるとき本当に楽しそうだもん。マツトソもペンキ屋さん継いだ時には楽しいと思ってなかったんじゃないかな。でも好きを見つけたんだと思う。」

「俺はお客さんとの接客や集客は好き。こんな風なワクワクを発信すればお客さんは興味を持ってきてくれるんじゃないかなって考えること。来てくれたお客さんがその通りのリアクションで満足して帰ってくれたらこんなに楽しいことはないよねって思ってる。」

 

前向きに仕事をしている大人の共通点なのかな。自分の仕事を「こんなに可能性のあるおもしろい仕事はない」って誇らしく話すこと。

 

こんな話の流れでがくさんはおっしゃいました。

「楽しそうに仕事をしている大人の周りには楽しそうに仕事をしたい子供が集まってくるだろうなって思う。」

 

まちづくりの話でも、どうやってまちに帰ってくる若者を増やすかという話題は出てきますが、楽しく仕事をする人、楽しく生きる人を増やすことがその一歩目にはあるのかもしれません。

楽しく仕事をする人で溢れる世の中だといいなとじるとともに、そんな世の中を目指すスタートに地域という余白のある場はなれるのかもしれません。

 

今回はこの辺で。後編に続きます。

 

文:山本修太郎)